祖父の従軍記

wakate2006-01-02

正月の自宅に帰っている間に祖父が残した「第五七三一部隊 従軍日記」をパソコンでワープロ打ちしました。
今年93才で他界した祖父が、昭和59年、まだ元気だった頃記したものです。葬式の後、父が「こんなものがあった。」と見せてくれました。

昭和16年7月、30才の祖父は召集令状がきて、従軍。大東亜戦争の前でした。

親戚、字の見送りを受けて、三嶋へ行ったこと、所属した連隊名、隊長の名前、二等兵一等兵上等兵に進級したこと、幕営した地名など克明に綴られていました。

私の叔父は、昭和15年生まれですから、祖父は生まれたばかりの子どもを残して、戦争に行ったことになります。その気持ちはどんなだったでしょう。
また、6年間、夫がいない中で、3人の子どもを育てた祖母、父がいなかった父たち3人兄弟の生活はどうだったでしょう。
いろんなことを想像しました。

16年12月「大東亜戦争勃発を知る」とありました。

祖父の記録には、戦争で直接戦ったとはありませんでした。
作業が多かったようです。しかし「満人」を監視する、「坑道を掘らせる」などの文は、身がひきしまりました。

また、シベリアでの抑留生活は、多くは記されていませんが、
「ノルマ食」
「いやなところだった」
「えらかった」
という短い言葉が、かえって強烈でした。

終戦が20年8月。おじいさんが帰ってきたのは、22年の12月。2年二ヶ月以上も後です。
戦争が終わっても帰ってこない夫、父を家族はどう思っていたのでしょう?

パソコンに向かいながら、いろいろ考えました。

それから、日付、場所などこれだけ細かな文章がかけることに驚きました。
きっと、毎日記録を残していたのでしょう。

それから、どうしてソ連は、戦後、日本人を抑留したのでしょう?
①対日交渉を有利に進めるため。ねらいはなんなのだろう?
②東西冷戦下、日本の動きをけん制するためでしょうか。

しかし、戦争が終わった後で、抑留させることは罪ではないのでしょうか?
歴史に対する疑問もわいてきました。

HPには、いくつもシベリヤ抑留の記事がありました。

▼旧ソ連抑留画集

▼「岸壁の母を歩く

▼旧満州(黒竜紅省)




午後4時30分から「Dr.コトー」の再放送をしています。
出張が2回ほとあり、車中で観る(聞く)機会がありました。

島の生活は不便です。貧しさもあります。
しかし、
島に生まれたことの不便さをうらむことなく、
その中で、みんなが助けあって生きている。


Dr.コトーはねスーパーマンすぎますが、
まわりの人物が魅力的です。


ちょっと泣けました。